吾輩は猫である。名前はまだない。

なんと言う名書き出しであろうか。簡潔にして大胆、それでいて気品があり物語りの内容を 的確に暗示させる書き出しである。

 吾輩は犬である名前は福助である。

ぼけた。完全にぼけてしまった。やはり犬では無理があるようだ。猫の持つ気ままで、気高いイメージがなければ成り立たない文のようだ。しかも名が付いていると言うことが、温室育ちで、人間に尻尾を振って媚びている様を起想させるではないか。名は福助…ぼけるのも無理はない。もう一度書き出しし直そう。

 最初の記憶は、透明な壁に遮られた空間。独りぼっちで目覚めた時の視界を濁らせる薄暗いまぶしさ。そして、その透明な壁を隔てて、笑いかけては消えてゆく人々だった。
  その空間で小生は不安な毎日を過ごした。夜は独り淋しく寝りにつき、昼はひっきりなしの無遠慮な視線と嬌声に晒される日々。なぜだか発熱している座布団、ボール、首に巻かれた阿部ヤケウと書かれたわら半紙。食事と排泄物の掃除、何人かの人間に抱かれる時以外は、外に出ることもまま成らない我が身。それが小生の世界のすべてだった。

 そんな ある日、一人のヒゲを貯えた男が小生の部屋の前で足を止めた。その男は、全身黒ずくめで、頬はゲッソリと抉れ、目は落ち窪み、その細い目には生気がなかった。
 しかしすぐに立ち去ったので小生も別段気にも止めないでいると、人だかりが少し掃けた後に、その男がまた戻ってきた。 その男の動向は不信で、目が一点に定まっておらず、顔が赤らみ、しきりに汗を拭っている。
  女同士もしくは女と男で来ている人達の中に置いて、その男は異様な雰囲気をかもし出していた。真顔なのに、目だけが堪えきれず、にやけている。しかも何故か目に薄らと涙を浮かべているではないか。
  怪しい。小生はその怪しさに精一杯吠えたてた。しかし
『にゃん!にゃん!!』
 猫の様な情けない声が喉からせり上がってくるばかりで、その男を威嚇しようにも、その声は、その男をさらに喜ばせるばかりであった。おかげで男は増長し、ますます間抜け面 の醜態を曝け出した。
  しばしの後、男は気が済んだのか小生から視線をはずし、足早にその場を立ち去り。その日戻ってくることはなかった。その男が後に同居人となるオジジその人であろうことは、その時小生もオジジでさえも気付かなかった。

 数日後ヒゲの男が、今度は女を伴ってやってくると、やはり前回と同じように、小生の部屋の前で立ち止まった。
 男の連れて来た女は、ガラス越しに小生を覗き込むやいなや表情を崩し、ある言葉を連呼し始めた。その言葉は小生が生まれて、一番耳にしたであろう言葉、「可愛い」である。
 「可愛い」を、溝が擦り切れて同じところをしつこくリフレインするレコードの様に、その言葉を連呼する女の傍らで、男が得意気に女に、なにやらしゃべりかけていた。
  女が一緒である為か、この日の男は顔の赤みもなく、汗もかいては居らず、また堂々と笑顔を保っていたのが小生の鼻についた。なんて醜い笑顔であろうか!
  しかし女の耳には男の言葉は届いてないように見受けられた。男はそれとは気付かずに、しつこく女に話し掛けていた。まさに阿呆カップルである。しかし渋谷と言う土地柄、阿呆には多少慣れている。
  女は終止笑顔を崩さず、ガラスの僅かな隙間から、ボンボン、ボンボン、と意味不明の言葉を小生に投げかけた。幾度も、幾度も。
  小生もついにはその声に釣られて。後ろ足を思いきり突っ張り、頭を下げたポーズで、一所懸命『にゃんにゃん』とやった。
 女はますます喜び、ガラスの隙間から息を吹きかけてきた。その息と捕らえようと小生も必死でガラスを舐めた。女は他の女達の冷たい視線を受けながらも、その遊びがお気に入りらしく、なかなか止めようとはしなかった。
 しかし、その女も他の人間同様、ここから出して遊んでくれはしなかった。
  分かってはいた。文字どおり、カギを握っているのはいつも御飯を運び、排泄物の処理をしてくれるお姉さんなのだから。
  小生はそれでも一所懸命に『にゃんにゃん!!にゃんにゃん!!』と泣き続けた。それこそ阿呆の様に…
 
しばらくして、いつも御飯を持ってきてくれるお姉さんが、その男と女に話しかけた。二言三言 話をして、お姉さんの言葉に女が頷くと、カラカラと言う音と共にガラスが開いて、お姉さんが小生を抱き上げた。
  小生の小さな体はいとも簡単に中に浮き、そのまま女に手渡され、小生は女の柔らかな懐に抱かれた。久しぶりの触れあいに、小生は悦びを隠しきれず、女の指を貪るように舐めた。楽しさのあまり少し咬んだかもしれない。
  しかし女は小生以上に嬉しいらしく、弾むように、ぼんぼん、ぼんぼん、と人間の言葉を話せない小生に声を掛け続けた。顔には満面 の笑みを浮かべて。そして、この女こそが小生の運命を決定付ける小野寺ルミである。

  女は名残惜しそうに小生をお姉さんに渡すと、小生はお姉さんの手によって、また薄暗いガラスの部屋に戻された。女と男はなにやらお姉さんと話をすると、名残惜しそうに、何度もこちらを振り返り、帰って行った。
  しかし不思議なことに男と女は、数時間の後戻ってくると。お姉さんとまたなにやら話し始め、また何処かへ消えて行ったのだ。
  後に聞いた話では、この数時間の空白で、小生を家に迎えるか否かを、穴蔵のような洋食店でタコライスを食べながら話し込んでいたらしいのだ。そう少し辛いが美味しいタコライスを食べながら。

 数日の内にまた男と女はやってきた。ガラス越しにひとしきり話し掛けられて、小生が首をかしげる度に二人で笑いあっていた。
  しかし、小生風邪を引いて居て、遊ぶこともできず、座布団の上に臥していたのだ。体調が悪いにも関わらず不粋な目に晒され、ゆっくり精神的な療養もさせてもらえない、自分の運命を呪いつつ、あおっぱなをたらしながら。
  ふいに頭上で男の声がした。
「おいっ鼻提灯が、見たか、今鼻提灯が。今鼻提灯が。可愛いな。」
  この男やはり阿呆であった。いつも小生を取り囲む、真っ黒に日焼けをした、野生の人間達とさして変わらないボキャブラリーしか持ち合わせてないのだ。彼等もまた、同じ言葉を連呼するだけで会話として成り立っていないことの方が多い。後にニュースでみた言葉の乱れとはこのことであろうか?それは昔の日本語を知らない小生の知るところではない。

  そのまた数日後、ついにここを離れる時がやってきた。その日は、男が女を伴ってやってきた日から、丁度一週間が立っていた。男と女が三度訪れて小生の運命を鷲掴みにしたのだ。
  その日は数日前からの風邪が治りきらず、朝から少々だるい感じが抜けきらずにいた。くり返される女達の嬌声の拷問に、必死で耳を塞ぎ横になっていると、例の男と女が現れた。
 しかし、おかしなことに二人は小生に一瞥くれると、そのまま小生の部屋の前を通 り過ぎてしまった。
 数分後、今度はお姉さんが小生の部屋の前に立ち、おもむろにカギを開けると、小生を抱き上げ、二人のいる所につれて行った。
 小生は、わけのわからぬまま二人とキャメラで写真を撮り、そのままドーナツの箱のような物に閉じ込められた。あっと言う間の出来事だった。

  それから暗闇の中で、回りの音が目まぐるしく変わったのを覚えている。まず女の嬌声が遠くなり、その変わりに人間の声ではない、雑多な音のうねりが小生の耳を刺した。恐くて、不安で声も出せなかった。
 また急に音が変わり、人間の声が身近に聞こえてきた。後によく利用することになるバスに乗ったらしいのだ。小生、鳴いた。あらん限りの声で鳴いた。疲れる程に鳴いていると、急に眩しい光とともに箱の上部が開けられ、そこから女が顔をのぞかせた。微笑みながら、大丈夫、大丈夫と声を掛けてきた。
  しかし小生、可愛い以外の言葉が解らなかったので、そのまま鳴き続ける他なかった。恐くてしょうがなかった。
 すると二人はバスを降り、別の、少し小さな乗り物に乗りかえた。その乗り物は、二人以外に人間が一人しか乗っておらず、そこで小生も少し安心して、鳴くのをやめた。  その小さく静かな乗り物は、夜の中を滑るように走った。この薄暗い夜の先に、暖かい幸福が待っている事を願う二人と一匹を乗せて。まだ少し寒さの残る四月の空の下を。    

吾輩は犬である、名前はこの時、まだない。                                                                             

つづく

 

 次項

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




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