「う〜ん…そ〜だな〜」 随分長い間、おじじが別人のような気難しい顔で、小生の顔を凝視しながら何やら深く考え込んでいた。時々発する意味不明のうめき声にも似たおじじの声意外に、この部屋の空気を震わせる音はなかった。
表の大通りも何故か音を潜め車の往来がすくない。
「あっ…ちとちがうか…う〜ん……」
 部屋の中空には、たばこと、獣と、おじじの匂いが、まるで視覚で認識できるかと思われるくらいにはっきりと匂い、ゆらゆらとたゆとうている。
しかし空気はピーンと張り詰め、小生の毛の下に隠された柔肌をチクチクと刺激するかのようだ。
 おじじの隣で静かに座っていたルミが、緊張感を周りの者に強いるような、そんなおじじの雰囲気にたまりかねたように少し甘えたような声でおじじに聞いた。
「ねぇねぇどうするの?ねぇどうするの?」
 おじじは間髪入れず刺すような目でルミを睨み付け、こういった。
「うるせーぞ!このやろう!人にばっか考えさせねぇーで、てめーも一つぐらい考えろアホ! 間抜け!」
 おじじは狂ったように口角に泡をためて喚き散らすが、ルミはあくまでおっとりさんを気取り、首をすこし傾いで、畳みに目を落としたままでおじじに返す。 「えぇ〜私わかんないもん。」
  その計算された仕種におじじはますます怒り、
「ワカンナイモンじゃねぇだろ!わかんねぇ〜から考えんだろ!!はぁはぁ」
 おじじは興奮し過ぎたらしく、真っ赤だった顔からはスーっと血の気が引き、ニュートラルを一気に越えて、みるみる蒼白になっていった。そして不意に首をガクンとうなだれ、幽霊の様に蒼白なままの顔で、少し淋しそうに呟いた。 「やっぱダメだ…ピエールか福助しか思い浮かばない。
俺はなんてダメ人間なんだぁ…」  その一言はその場の空気を一瞬にして凍らせた。
ピエール?福助?  ここで小生の小賢しくも明晰な頭脳は、今小生が置かれている最悪の事態を確信してしまった。
(あっこれ、小生の名前だ…)
  であるならばおじじ、自己嫌悪に陥った振りをして、自己陶酔している場合ではないではないか。
 なんで候補がこんな二つしかないのだ。とんでもない家に買われたものだ。
  小生の目の前でうなだれているこの男は、一生涯このどちらかの名前で呼ばれなくては成らない小生の気持ちをおもんぱかる事もできないでいるのだ。
  小生の愛らしい瞳からはいつしか無垢な涙が溢れでたが、頬を濡らす前に目の下の毛に吸収されていくだけで気分を紛らわせる事もできない。 しばしの脱力感が小生の身を包んだ。
 しかし泣いていてもなにも解決しない。そんな事は、産まれ落ちて本物の母と引き離される時にすでに悟っている。
(ダメだ泣くな、考えなくちゃ。ダメだ泣くな!)
 何処かで聞きかじったセリフで、自分を精一杯鼓舞し、パニックを起こしかけている頭を無理矢理冷静にさせた 。
  涙のせいで霧がかかった様に薄ぼんやりとしてしまった思考の、ほんの少しの隙間をなんとか探し出し雀の涙程度の思考力で考えた。 小生の導き出した答えはこうだった。
 おじじは多分ここで小生に二者択一の選択を迫るだろう。小生は人間の言葉が話せないので、一個ずつ候補となる名前を呼んで小生の反応を見るつもりだ。それしか考えられない。
 しかもおじじも小生同様に混乱し始めている。否、真っ最中である。
  これ以上の候補を立てるだけの精神力は今の彼にはない。 目があらぬ方向を向き、口元が小刻みに動く彼の姿をみればひを見るより明らかであった。
  おそらくこの二つの候補で決まりであろう。  助けを求めるつもりで小生はルミの方を一瞬向いた。しかし直ぐに目を伏せた。なぜならルミは阿呆丸出しの顔で、なんにも考えていない顔をしていたからだ。これではルミに期待することはできない。
 ピエール…福助…。考えるだけで頭の奥の方が痺れ、キナ臭い匂いと共に新たな涙が溢れそうになる。
(ダメだ泣くな、考えなくちゃ。ダメだ泣くな!)
 この二つでいうならやはり響きのいいピエールが妥当であろう。しかしフレンチな名前で、トレビアンなことは認めるが、ここは日本である。日本以外であれば、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ、ロシアどこでもこの名前で小生は納得する。
  しかしここは世界で唯一、この名前がいただけない国、日本であるのだ。
  なぜなら日本でピエールと言えば亀の名前であって、犬の名前ではないというのは定説である。この素敵な名前もこのエキゾチックアイランド、ジャポンにおいては笑いのネタになってしまうことは必至だ。
 しかし、そうであったとしても福助よりかは、いくらかはましな気がするのも事実。
 福助、響き自体がユーモアを帯び、その形状たるやまさに妖怪そのもの、二頭身で耳が大きく頬をいつも赤く染めて、裃で土下座をしている。裃で土下座である。小生はどうしても理解ができない。裃であるのに何故土下座であろうか…。
 しかしこうなってしまった以上、妖怪より亀の方がまだましである。
  おじじがピエールと呼んだ瞬間にワンッ!!と元気よく吠えてやろう。悲愴ではあるが覚悟は決まった。小生が名前を気に入った振りをすれば、それを考えたおじじのかなり肥大ぎみの自尊心も、すこしはみたされることだろう。これからよろしくと言う意味も込めて、元気よく答えてやろう。
おじじいつでも用意はいいぞ。小生はおじじの目を見つめてその瞬間をまった。
 おじじがおもむろに口を開いた。ため息と共に吐き出された言葉に、小生は凍り付き、一瞬五感を失った。
「はぁ〜しょがねぇ福助で行くか。」
 言葉の最後の方は、もうやけっぱちになっていた。頭の中で音ではない音が、ザッとなった気がした。宙に浮きっぱなしのおじじの言葉を、なにも考えられなくなった頭で拾い集め、手本の無いジグソ−パズルのように、繋がらない凸 凹を一生懸命に繋げようとした。  慌てた。こんなはずはない、こんなはずはない。  
  おじじの言葉は部屋にたゆとう煙りと共に霧散し、もはや小生はおじじの言葉の断片すらも持ってはいなかった。
  しかし絶望感だけは我が身をはなさない。ああ…あああ…。
「福助だ!お前は福助だ!!」  おじじはまるで責任逃れをするかのようにいいはなった。
小生はようやく感覚を取り戻したが、希望がなくなったぶん絶望感はましていた 。

 
  ああ…そうだ…僕の名前が決まったんだ……。
 かあさん僕の名前は福助になったんだよ。
 いつかかあさんにあうことができたら福助ですって元気に挨拶するよ。
 そうしたらかあさん元気に挨拶できたねって誉めてくれるかい?
 それとも自分の子が福助なんて恥ずかしくてそっぽを向くかい?
 フクスケっていうんだって…わらっちゃうよね…
 かあさん僕の名前が決まったよ…。

 つづく

 

前項 次項

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




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